統計物理界隈のとある分野の大御所H氏に「ホームページを更新しなさい」と言われたので、駄文を捻り出す事にした。
誰しも、同じ物をずっと見ていると飽きてつまらなく感じるのではないかと思う。ただ、何を‘‘同じ’’と見做すかは個人の裁量に依っているだろうけれども。たとえば、ある知り合いは、「スポーツ漫画を読めない、どうせ主人公のチームが勝つからつまらなくて」と言っていた。確かに、その部分だけを切り取ると多くのスポーツ漫画は展開が画一的でつまらないだろう。また、「流行るスポーツ漫画やバトル漫画では、大体、主人公が一度大きい負けを経験してから最後に勝つ」という話も聞いた事がある。確かに、ドラゴンボールやワンピースなどの有名バトル漫画はそんな展開ばかりだし、スラムダンクやハイキューなどの有名スポーツ漫画でも全国大会に出るまではそんな流れだ。この、主人公を一度負けさせるというのは、読者に「どうせ勝つんでしょ」と思わせないための対策だったり盛り上げるための演出だったりするのだろうけれども、それ自体も既にパターン化しているもしくはこれからするだろう。さらなる対策なのかはわからないが、スラムダンクやハイキューの全国大会編は最後に主人公チームが負けて終わっていた。途中の戦いでも最後の戦いでも勝つか負けるかわからなければそれなりに楽しめる気はするが、どうせ今後それをも含むさらなるパターン化が出てくる気もしている。小説でも、同じ著者の作品を読んでいると、如実に展開の類似性が見て取れる場合がある(1)。お笑いでも、このコンビの漫才はいつも同じに見えるとか、このコントは同じ事を繰り返しているだけに思えるといった事はある。初見の人から笑いをとりやすいある種の‘‘型’’は存在していて、それから逃れるのは難しいのかもしれない。昔、Aマッソというお笑いコンビがコントの中で「最近女芸人がおもろなってきたとか言われてるけどそんなん嘘や、テンプレートが蔓延して皆やりやすくなっただけじゃ!!!」と言っていたが、その台詞にはAマッソの魂が籠っている気がした。上で挙げたような創作の世界は、自分の過去作や他作品との類似を避けなければならず、パターン化撲滅運動が延々と続く修羅の道なのだろう、という気がする。
学術論文でも、似たような事はある。ある研究分野が流行すると、似たような手法で似たような対象を解析して似たような結果を得る論文が量産されたりするのだ。勿論、一つ一つの学術論文は唯一無二なので、他の論文と全く同じ結果のみを載せている論文はない。しかし、状況設定をほんのちょっと変えただけだったり、結果の物理的意味はほとんど同じような論文はあったりするのだ。望月は、学生時代にそういった論文の山を目にして気持ちが醒めた事もある。学術界も競争が激しく他研究者と比べられる事が多いため、「論文を沢山書いて自分の能力をアピールしなければならない」という圧の存在が、類似論文が量産される一因なのかもしれない。勿論、流行分野においても他の追随を許さない程に良質で素晴らしい論文は幾つもあり、その分野が流行しなければその論文達も生まれなかったかもしれないので、一概に上述の状況を批判する事はできないのだけれど。ただ、学術界隈の競争意識は今よりは下がった方が良いかな、と思ってはいる。人類が学問を発展させようとしたら、競争ではなく分業を行うべきなので。特に、資金調達で研究者達を激しく競争させ研究以外の業務で疲弊を強いるような制度設計には、改善の余地が多分にあると思う。
人間関係や他人の評価でも、慣れの効果は如実に効いてくる。誰かに何かを奢ってもらったり親切にされたりして、最初はその相手に感謝しても、何度か繰り返すうちにそれに慣れてしまい何も思わなくなる、というのはあるあるなんじゃないかと思う。親切にされる事に慣れ過ぎて平気で高飛車な要求をする人間にならないように、自分を戒めていく必要がある。普段善良な人がちょっと悪い事をしただけで行動に見合わない程激しく責められたり、普段はどうしようもない人がちょっと良い事をしただけで激しく褒められたりするのも、慣れの効果だろう(2)。2024年キングオブコント決勝でのロングコートダディのコントでは、肉団子みたいなサラリーマンが花屋の店員に散々嫌味を言った後、その店員が車に轢かれそうになるのを肉団子サラリーマンが助けるのだが、その後に花屋店員が肉団子サラリーマンに向かって「あの...まだマイナスです!」という台詞を言っていた。これは、慣れの効果に惑わされず冷静に他人を評価していて、とても良かった。自分を評価する際にも、慣れの効果に注意する必要がある。87歳の老人が25歳ぐらいの自分と運動能力を比べたり、将棋好きの少年が藤井聡太と自分を比べたり、お笑い好きの少女がギャロップと自分を比べたりしても、能力に差があり過ぎて落ち込むのは当然だ。業界全体の中で、もしくは自分の人生全体の中で今の自分がどのあたりにいるのかを把握し、適度に下を見て落ち込み過ぎないようにする事も必要だ。望月はよく、ものすごく優秀な研究者を自分と比べて落胆/発狂しそうになる時に、小学生時代の鼻くそをほじる以外にほとんどやる事がなかった無能で自堕落な自分を思い出し、「あの頃の自分よりは頑張ってるかな」と思って落ち着くようにしている。
個人的経験としては、緑追及の過程で慣れの怖さを感じた。望月は緑色が好きで毎日緑色の服を着ているのだが、周囲の人々がそれに慣れてしまっているように思えるのだ。実際、よく会う学生や同僚が「今日の服装は緑色が少ないからダメだ」とか「緑の部分が少なくて誰だかわからなかった」といった事を言ってくる。そんな時、スラムダンクに出てくる豊玉高校の北野監督を思い出す。北野監督が率いるチームは毎年全国大会8位になるという快挙を成し遂げているのだが、高校の理事がそれに慣れてしまい、4位以上になっていないという理由で北野監督が解任されてしまうのだ。そのような状況での、北野監督の「周りはすぐ慣れる、じじいはいささか疲れたわ」という台詞は心に染みた。望月はまだまだ疲れていないが、緑追及の努力をもっと皆に認めてほしいな、とは思っている。また、慣れやパターン化の話からは少しずれるが、物語のオチを知っているために作者の意図とは違う楽しみ方をしてしまう事もある。昔、オリエント急行殺人事件を読んだ時にそれがあった。この話では、列車の乗客達が共謀してある人を殺し、それが最後に発覚するのだが、有名すぎる作品であるために望月は読む前からそのオチを知っていた。そのため、読んでいる最中は「そこは、もっとこうした方が捕まりにくいだろ!」といった事を思いながら読んでいた。金閣寺を手に取った際にも、主人公が金閣寺を燃やすというオチを知っている状態で読み始めた。ただ、いつ燃やすかまでは知らなかったので、途中で度々「まだか、早く燃やせ!」や「今、燃やすチャンスがあったじゃないか、なんで燃やさないんだ!」などと思っていた。この文章には明確なオチはないけれども、H氏を満足させる程度の分量にはなったと思われるので、このあたりで終わる。
1.耳をすませばというジブリ映画で、主人公が「本を読んでも、この頃、前みたいにワクワクしないんだ」という台詞を言っていた。望月は、勝手に、ここで書いているような意味でのパターン化の波に呑まれて主人公が小説をつまらなく感じているのだと思い込んでいた。しかし、ちゃんと台詞を見てみると、その後に「こんな風にさ、うまくいきっこないって、心の中で、すぐ誰かが言うんだよね」と続いていて、ちょっとニュアンスが違う事に気付いた。これは、望月が名探偵コナンの映画を観ている時の気持ちに近い。コナン映画は、そうはならんやろという度合いが高すぎて逆に面白いけれども。
2.ちょっとずれるが、政治家やスポーツ選手、芸人などが不倫で怒られたりするのには納得できていない。彼らは政策や運動能力、面白さなどで評価されるべき人々なのに急に清廉潔白さという謎の評価軸が持ち出されているからだ。