両親の職業について

両親は、ロシア文学の研究者をやっている。一方、息子である自分は物理学の研究者を目指している。とても変な家庭だな、と我ながら思う。両親は既に退職し北海道大学の名誉教授となっているが、退職してもなお、一日中勉強や翻訳・研究ばかりしている。ただ、パソコンの画面や読んでいる本のページを覗き込んでみても、そこに並んでいるのはロシア語の文章なので、まったく理解できない。逆に、自分がやっている物理の研究内容も、両親にはまったく理解されない。

そんな両親だが、父が来年度から千葉県のとある大学で働く事になった。大学からオファーが来た当初、父は、北海道の家を離れて千葉に単身赴任することに対して消極的だった、ように思う。「ロシア文学研究者が就くことのできる安定したポストは少ない」という事情が、父の最終的な決断を後押ししたようだ。身内とは言え他人の事なので、全部推測に過ぎないけれど。父が一度その職に就き、成果を挙げ、周囲に認められれば、次回以降もロシア文学研究者がそのポストに就く事ができるかもしれない。そうすれば、ロシア文学研究者(特に若手)が活躍する場が増えて、皆幸せになれる。そうなる事を願って止まない。物理学者を目指している所為か、「研究者は安定したポストに就けない不安定な時期が長くて大変だ」という話は耳にタコができるほど聞いているし、実際にその事を肌で感じてもいる。よく耳にするのは理系の研究者に関する話だが、文系の研究者も似たような状況、というか分野によってはもっと酷い状況だろう。これも憶測だが。「文系の学問は役に立たない」なんて極端な言説もある。一方で、「物理学が役に立たない」と言う人はいないだろう。スマートフォンや冷蔵庫などの便利な電化製品を誰でも手軽に使えるのは、物理学が発展してきたお陰なのだから。そんな風に、“役に立つか否か”で物事の必要不必要を判断する場面は多いだろう。

だがそもそも、物理学や文学などの学問は“役に立つ事”を目指すものではない、と思う。物理学は、少数の基本的な法則を基に多様な物理現象を説明する事を目的としている。物理学徒の代表面をしてこんな事を書くのは気恥ずかしいが、大体の物理学者に共感してもらえるだろう。また、身近な二人の文学徒はドストエフスキーやトルストイなどの文学作家を研究している。僅か数冊を読んだ身の拙い感想だが、彼らの作品では、多くの人が共通して持つ感情が生々しく描写されている、と感じる。そのような優れた作家の作品を研究する事で、人間の本質の理解へと近づけるのではないだろうか。研究対象は千差万別だけれど、学問というのは、対象を深く理解する事を目的としている。その部分はどの学問でも共通だと思う。様々な対象、大袈裟に言えば“世界”を考究することを通して、人間は成長し賢くなれると信じている。そんな事を考えているので、研究者の待遇が良くないという現状をとても憂いている。話が散らかってしまったが、言いたかったのは、「文系理系を問わずちゃんと学問をやっている人に安定したポストが与えられたら幸せだ」という事に尽きる。父の再就職が学問の発展に寄与しますように。